第1回 続下水道れきし旅
「7~8世紀、大宰府の下水道」
第266号(令和4年3月)まで連載していた「下水道れきし旅」が本号より復活しました。
弥生時代に入ると朝鮮半島、大陸との交流が始まりました。4世紀に入り、古墳時代を迎えると交流はますます盛んになり、博多はその玄関口として重要な地位を占めるようになります。6世紀に入ると現在の福岡市に官家が置かれ、これが九州全体を治めました。ところが7世紀に入ると朝鮮では戦乱が起こります。新羅と唐の連合軍が百済を攻めたため、百済は倭国に救援を求めたのです。そこで大化の改新を成し遂げた中大兄皇子(後に天智天皇)はこの要請に応え、紀元663年に派兵しました。しかし、倭国軍は朝鮮の白村江の海戦で大敗を喫し、ほうほうの体で逃げ帰ります。日本は唐や新羅から報復されることを危惧し、官家が危険にさらされる情況になったので、博多平野が狭まる奥地に移転し、太宰府を設置したのです。
太宰府は九州の極めて重要な地方政庁ですから、その防衛網は厳重にする必要がありました。図にあるように、太宰府周辺に大野城や基建城を配置するとともに、平野部から太宰府の入り口付近に長大な土塁を造って防衛線を築いたのです。土塁は平野部から山間部への入り口部分に築造され、その前面に外堀を、後ろ側には内堀も設置されました。そして外堀の裾部から堀の排水に用いられたと考えられる瓦排水溝(下水道)が発見されています。
一方、太宰府は条坊制の街区で構成され、その中に政庁が整備されました。政庁の周囲は築地塀で囲まれ、政庁の内部は回廊で結ばれ側溝や写真のような士管を用いた下水道が整備されたのです。防塁や排水のための士管製造技術などは朝鮮から亡命してきた渡来人がもたらせたものです。土管は奈良の飛鳥寺等でも使用されていますので、この時代に日本に定着したと言えるでしよう。渡来人たちは技術や法律、国家体制など多くの重要な知識をもたらし、それが律令制の整備などあらゆる分野で日本という国が国家としての体制を整えてゆくことに大きな影響を与えたと言えます。
(月水土楽人)
(出典:九州歴史資料館2009『水城跡 下巻』)
(出典:大宰府展示館展示資料)
月水土楽人(げすいどうらくじん)
下水道関連の業務に携わる傍ら、ライフフークとして世界の下水道史について調査を続けている。
今では「下水道博士」と言われるほどに。