特集 東京下水道100年の歩み

令和4(2022)年は、わが国最初の近代下水処理施設である旧三河島汚水処分場(現三河島水再生センター)が、大正11(1922)年3月26日に運転を開始してから100年になります。今回は100周年を記念して、東京下水道のこれまでの歩みをご紹介したいと思います。

東京下水道のはじまり

明治初期、東京府の人口は80万人ほどでしたが、明治維新後に地方からの労働者が職を求めて東京に流入し始めました。

下町を中心に形成された居住区は、急速に過密化したことで衛生環境が悪化し、明治10(1877)年頃からコレラにより多くの死者が出ました。このことから、上下水道などの衛生施設の改良促進を求める世論が高まり、東京の近代下水道の歩みが始まりました。千代田区神田駅付近には、明治17(1884)年に敷設された下水道(神田下水)がまだ現役で使用されています。

写真:現在も使用されている神田下水

現在も使用されている神田下水

処理施設の誕生

明治33(1900)年には、コレラの流行などを背景に、土地を清潔に保つことを目的とした日本最初の下水道に関する法律である「旧下水道法」が制定されました。

さらに、明治41(1908)年には今日の東京下水道の基礎となる「東京市下水道設計」が、大正2(1913)年にはその変更案が内閣に認可され、三河島から最初の下水道工事が始まりました。そして、大正11(1922)年に国内初の近代下水処理施設として、三河島汚水処分場が稼働しました。

写真:東京市下水道設計図

東京市下水道設計図

写真:三河島汚水処分場

三河島汚水処分場

震災と戦災

三河島汚水処分場が稼働した翌年の大正12(1923)年には、関東大震災が発生しました。震災の影響で多くの建物が倒壊してしまい、下水道工事も中止を余儀なくされましたが、復興作業は急ピッチで進められていきました。

昭和18(1943)年には、今まで交錯して進められてきた都市部と郊外、各町別の下水道計画を統合した新計画が策定されましたが、昭和19(1944)年に、太平洋戦争の影響で事業は全面的に打ち切られてしまいました。下水道施設への戦争による損害は比較的軽微であり、施設の全般的機能が停止することはありませんでした。

戦後は、戦前の計画に諸条件が加味された新計画が作成され、下水道の整備が進められました。

高度経済成長期と下水道

1960年代には、本格化した高度経済成長により日本に豊かな経済社会がもたらされた一方で、大気汚染、騒音、水質汚濁など、公害による生活環境や自然環境の悪化が問題となりました。

1960年代後半に入ると環境の悪化を放置できない状況となり、下水道は公害対策行政において最重点施策と位置付けられ、様々な計画が策定される中で、重要な役割を果たしました。

写真:河川の汚染 (昭和30年代の多摩川)

河川の汚染 (昭和30年代の多摩川)

写真:芝浦処理場施設見学会(昭和中期)

芝浦処理場施設見学会(昭和中期)

都市化と下水道

都市化の進行によって地下に雨水が浸透しにくくなり、「都市型水害」の発生が顕著になりました。昭和56(1981)年7月22日の集中豪雨では1万棟の家屋に浸水被害、同年10月の台風24号では4万棟を超す家屋に浸水被害が生じており、これまで以上に雨水対策のための整備が求められることとなりました。

下水道の普及

下水道事業推進の結果、平成6(1994)年度末に区部の下水道整備は100%普及概成を達成しました。また、それ以降は、老朽化施設の再構築、浸水対策、処理水質の向上など、都民生活と都市活動を支え続けてきました。

東京都下水道局では、これからも、都民の皆さまの安全・安心の確保と、更なるサービス向上を目指していきます。

写真:下水道整備の前後

下水道整備の前後

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