第2回 続下水道れきし旅
我が国「衛生工学の始祖」W•K•バルトン
衛生工学は市民の健康の保護、増進を目的として、工学的手法で蝶境の汚染防止や生活環境の保全に応用する学問分野です。その典型的な例が都市の水道や下水道です。明治初期、内務省の長与専齋は当時大流行していたコレラ対策に腐心していました。長与は医師として「岩倉遣欧米視察団」に随行し、ヨーロッパで近代上・下水道を目の当たりにして驚愕したのです。医聖ヒポクラテスの「病気は治療よりも予防が大切」という思想を実現している事実を知ったからです。長与は帰国後、早速上下水道整備の準備に入りますが、如何せんこれを実施するための技術者が皆無と言ってよい状態でした。明治19年に死者11万人に達するコレラの大パンデミックが発生しました。
長与は急ぎ外国人技師の招聘を決定し、翌1887年(明治20) 5月に英国からバルトン(William Kinninmond Burton) が帝国大学工科大学に衛生工学教師として着任しました。時の政府は学問だけでなく、実務の指導をも期待して翌年内務省雇工師兼務としました。実務者としてのバルトンを待っていたのは、東京市区改正条例(都市計画)で上下水道の計画を策定することでした。長与を主査とし、バルトンが主任となって作業を行いましたが、技術的なことは殆どバルトンが担当しました。バルトンは東京市の実情をつぶさに調査し、欧米で主流となっていた合流式を採用せず、汚水と雨水を別々に排除する分流式を採用しました。コレラ対策として汚水は市中で水路に流出させてはならないこと、市の財政状況をも考慮し、合流式より低コストで済む分流式を採用したのです。ただし、糞尿は貴重な農業資源でしたので、原則として収容しないことにしました。バルトン計画は財政状況をも含めた当時の東京市の状況を深く考慮した計画でした。日本の技術者達は初めて上下水道計画立案の策定プロセスを学んだのです。しかしながら、本計画は財政難から棚上げされ、残念ながら日の目を見ることはありませんでした。
その後、内務省の後藤新平の依頼によりバルトンは函館、下関、名古屋等全国28の都市を訪問し、計画・設計の実務のみならず様々な助言を行っています。彼は助言一つ行うにあたっても、必ず自らの足で現地を踏査し、実清に適った指導を行っています。また、時には学生をも同道し、実地教育も行っていました。ですからバルトンは決して机上の学者というよりは地に足の着いた実務者であり、即戦力としての学生を育成するには最適の教育者であったと言えるでしょう。また、バルトンは我が国最初の高層建築である凌雲閣(通称浅草十二階)を設計したり、また写真家としても一流の腕を見せています。濃尾大地震や磐梯山大噴火を撮影し、その写真は学術的にも大変貴重な記録と評価されています。これらは「Great Earthquake of Japan」としてロンドンで発刊されました。その他多くの写真も海外に向けて発信され、日本文化の紹介にも大きく貢献しております。
そして明治29年(1896) 、バルトンは多くの功績を残して日本での任務を終了しました。しかし、後藤新平はバルトンに台湾の衛生状況改善を懇願します。要請を受けいれたバルトンは台湾に赴任し、全島の衛生工事の調査、台北や基隆、台南などで上下水道普及に尽くします。台湾の人びとは現在でもバルトンに感謝の意を表しています。しかし、休暇を取って故国に帰る途中、東京にて台湾で感染したマラリアにより、故郷スコットランドの土を踏むことなく召されたのでした。享年43才。バルトンは青山霊園にて永遠の眠りについておられます。
(月水土楽人)
(出典:「大池と凌雲閣(台東区立しだまちミュージアム)」)
月水土楽人(げっすいどらくじん)
下水道関連の業務に携わる傍ら、ライフワークとして日本及び世界の下水道史について調査を続けている。
今では「下水道博士」と言われるほどに。