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江戸下水道散歩 拾参

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上野の「下水」

絵図は『江戸名所図会』の「忍川・三橋」の挿絵です。今の上野公園南側入口前の広場になります。絵の左下に「不忍池」が描かれています。池から流れ出た水が広場を横切っています。「忍川」です。「忍川」に三つの橋が並んで架けられています。幅の広い橋が真ん中にあり、その両側に幅が半分ぐらいの橋が架かっています。真ん中の橋は徳川将軍が幕府の菩提寺だった寛永寺(現在の上野公園は寛永寺の境内でした)に参詣するときに渡る橋で、将軍以外は渡ることが出来ませんでした。普段、一般の人々は両側の橋を渡ったそうです。三つの橋が並んで架けられていたことから「三橋」と言われていました。今、広場に面して「みはし」という甘味処のお店がありますが、この「三橋」からとられた店名なのではないでしょうか。
この「忍川」が広場を横切った先の南側(絵図の右端)は、上野町二丁目という町屋でした。その上野町一・二丁目(現・台東区上野四丁目)の『沽券絵図』を見ますと、町の北端を流れる「忍川」のところに「御公儀下水」と書かれています。「御公儀下水」という言葉は他でも使われています。「御公儀」とは幕府のことですから「御公儀下水」というのは幕府の土地にある「下水道」ということだと思います。「忍川」は町地や武家屋敷地から流される下水を集める役割を果たしていたのです。川が「下水道」の役割を果たしていた所は他にもあります。江戸の「下水道」には、屎尿(糞尿)を取り込みませんでしたから、下水はそれほど汚れてはいませんでした(屎尿は近郊農村で肥料に使われました)。
この「忍川」は、図の右手(東)へ流れ、一度鉤の手に曲がりますが、ほぼ東へ流れ、武家屋敷地の中を流れて、今の台東区東上野一丁目辺りにあった大名屋敷(筑後〈現・福岡県〉柳川藩立花家)を囲んでいた堀につながっていました。その先は、南隣(現・台東区台東三・四丁目)の大名屋敷(出羽〈現・秋田県〉久保田藩佐竹家)の堀にもつながり、そこから今の台東区小島一・二丁目にあった「三味線堀」につながっていました。そこから先は「鳥越川」といわれ、東へ流れて、途中で浅草の方から流れて来た「新堀川」と合流して、隅田川に流れ出ていました。
「忍川」は明治末期から大正初期にかけて埋め立てられ暗渠となったと言われておりましたが、台東区営地下駐車場工事の際、「忍川」両岸の石垣が掘り起こされました。当時の新聞記事(平成17年4月4日)によりますと、かなり立派な石垣だったようです。

「沽券絵図」

町奉行所の指図によって、名主が自分の支配する町のそれぞれの土地の持ち主(地主)の名前や、その土地の管理を任されている家主(大屋)の名前、土地の広さ、売買価格、道路の幅・長さ、下水幅などを記した絵図面です。

忍川・三橋の挿絵

【絵図説明】
現在の上野公園入口南側の広場に三つの橋が架かっていた。
その下を「忍川」が流れていた。
『江戸名所図会 東叡山黒門前 忍川 三橋』

現在の台東区上野四丁目付近の写真

現在の台東区上野四丁目付近

栗田 彰(くりた あきら)

1937年 東京生まれ
1998年 下水道局を定年退職

著書
『江戸の下水道』 青蛙房
『江戸の川あるき』 青蛙房
江戸下水の街触集』 日本下水文化研究会
『落語地誌』 青蛙房

表紙

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